『裸の天狗』
TEXT by Toshio Suzuki
なにもぼくは、好きこのんで天狗なわけじゃない。
「あ。おまえ、今、ちょっと得意になってるだろ?」
なのに同僚の三上ときたら、ぼくが仕事をうまくやってのけるたび、そんなことを言う。
「そんなことないよ」
「うそつけよ。顔見りゃ分かるんだよ。あきらかに天狗」
確かにぼくは天狗だ。天狗だけれど、得意げになんかなっていない。父が天狗、母も天狗。つまりは遺伝だ。夕焼けみたいに真っ赤な顔と、両手で握ってもありあまる長い鼻。ぼくが天狗なのは、遺伝的に、あるいは生物学的にやむをえないことなのだ。
「同僚としてっていうか、ひとりの人間として忠告するけどよ。おまえ、もうちょっと奥ゆかしくしろよ。そういうひけらかしな雰囲気をぷんぷんさせてっと、周りから人がいなくなるぜ」
三上の頬は猿のケツ以上天狗の顔未満に赤く染まっていて、ずいぶんと深く酔っているようだった。
「ん、なんだこの曲、ヘンな曲だな」
三上が店のスピーカーから流れる曲に耳を傾けた。
「こずみっく……炊き出し町内会? くだらねぇ。こういう音楽を聴くと日本ももう終わりだなって感じるぜ」
三上の意識が店内BGMに向いたことをいい機会に、ぼくはジョッキの底にわずか残っていたビールを飲み干し、意思表示代わりに音を立ててテーブルに置いた。カウンターに置かれている伝票に手を伸ばした。
「あ、なんだよ。逃げる気か?」
思いのほか尖った三上の声に、ぼくの体がわずかにすくむ。
「違うよ。時間も時間だろ。そろそろ帰った方がよくないか?」ぼくの口調はどうにも言い訳がましくなってしまった。ふと、妻の顔が思い浮かんだ。
「おまえさあ、やっぱでっかいカシワの葉のウチワとか隠し持ってるわけ?」
三上はぼくの首に腕を回し、立ち上がろうとするぼくを、力ずくでイスに引き戻した。
「なあ三上。おまえの今日のミスって、おまえのせいじゃないと思うよ。下請けの部品納入が遅れたせいだろ。だから――」
「うっせえよ。天狗のくせに。ははあん。今度はお説教ですか。やっぱりお天狗さまは違いますなあ」
「……」
「社内融資つかって新築のマンション買ったとか自慢げに言ってたけど、ほんとは木の上に住みたいんだろ?」
「……」
「おら。もっとモロキュウ喰えよ、モロキュウ。ちきしょう、なんなんだよ、モロキュウってよ? モロにキュウリ? ばっかじゃねえの! くそっ」
「なあ三上――」
「おまえ、その長い鼻で奥さんのアレにアレしちゃったりすんだよな? つうか絶対するよな。しなきゃ、そんな鼻、意味ねえもんな」
「……」
「やっぱあれだろ? 大好物はキュウリなんだろ?」
「……そりゃ河童だよ」
結局、そのあとももう一軒つき合わされた。帰宅したのは深夜の二時を回っていた。
妻を起こさないようにとの配慮から、音を立てないように床から十センチほど浮いて廊下をすすむ。こんな風に空を飛べるのが天狗の良いところだけれど、もちろんぼくはそのことで天狗になったりはしない。
寝室の襖をそっと開けると、妻が驚いてぼくを振り返り、耳にあてていた携帯電話を、さっと枕の下に隠した。
「ちょっ、なっ、びっくりさせないでよっ! っていうか卑怯っ! 音も立てずに部屋に入ってくるなんて!」
卑怯?
「なによ。怒ってるんでしょ」
「いや、怒ってなんか」
「だって顔真っ赤にしてる」
「飲んできたから」
「いいわよねえ、オトコの人は。そうやってストレス発散できてさあ。あたしも毎晩飲み歩きたいよ」
「……ごめん」
「……」妻は口を尖らせ、無言でぼくを睨みつけた。
三上に引き止められてさ、と言い訳をしたかったけれど、言い訳がましく思われたくなくて口をつぐんだ。
静まり返った寝室。かすかに小さな音――人の声?――が聞こえてきた。……どうやら枕の下の妻の携帯電話から漏れ聞こえてくるらしい。
ぼくの視線が枕に向いていることを、妻は感づいたようだった。
「……あたしね。さっきまでオトコの人と電話してたの」
「……」
「知らない人だよ。出会い系サイトの掲示板で携帯番号交換したの」彼女は枕の下から携帯電話を取り出して見せた。小さく聞こえていた声が、少しだけ大きくなった。
「で、あたしはその男とテレホンセックスとかしてたのよ」
「……」
「なんで、そんなことしてると思う?」
妻の表情は、尋ねているというよりも、挑んでいる感じだった。
「ねえ」
「……ごめん」
「なんであなたが謝んのよっ!」
「……いや、でも。ごめん」
「やめてよっ! なんでそうなのよ。いっつも卑屈そうにしちゃってさ。あんた天狗でしょっ! 天狗なら少しは天狗らしくしなさいよっ!」
「……」
「お見合いのときに天狗だって聞かされてたのに。だから結婚してあげたのに」
「……」
「なのに全然天狗じゃないじゃないのっ! 天狗のくせに全然天狗じゃないってどういうことよっ!」
「……」
「知ってるのよ。会社の人たちにも天狗天狗ってバカにされてるでしょっ。なのにあなたって、一言も言い返せないのよね。ほんとだらしない」
「……」
「ねえ! こんなこと言われて、なんで怒らないのよっ! 怒りなさいよっ!」怒鳴る妻の目には涙が滲んでいた。
「……ごめん」
「やめてよっ!」
妻は、手にしていた携帯電話を、ぼくに向かって投げつけてきた。電話は胸にぶつかり、布団の上に落ちた。落ちた携帯電話から、男の声がもれ聞こえる。
――サトミちゃん? ねえ? もしもし? 聞こえてる? もうイッちゃったの?
布団の上で足をルの字にして座り込んでいた妻は、上半身をかがめ、顔を布団にうずめてむせび泣いた。
ぼくは黙って妻を眺めながら、携帯電話を手に取り、耳にあてた。
――ねえ? キュウリ入れてみてくれたよね? サトミちゃん? オレ、キュウリが一番興奮すんだよ。ねえ?
受話口の向こうから、荒く汚らしい息づかいが聞こえてくる。
――イッちゃっていい? おれもイッちゃっていい? サトミちゃん! サトミちゃん!
ぼくは耐え切れなくなり、送話口に向かって口を開いた。
「……どちらさまですか?」
瞬間、携帯電話のあちら側がふっと静まり返った。無音の時間がつづく。身じろぎもせずにこちらを伺っている緊張が伝わってくる。
「……失礼ですが、どなたさまですか? ディスプレイには発信者番号が出てますよ。調べようと思えば調べられるんですよ」
頬を泣き濡らした妻が、電話に向かって問いただすぼくの様子をじっと見つめていた。
「誰ですか?」
唾を飲む音が聞こえ、つづいて男が声を発した。
――私は。……私はただの河童です……。
ぼくは思わず目を見開き、妻を見た。彼女はさりげない風を装い、ぼくから目をそらした。
「ふざけんじゃねえっ! 河童の分際でっ! ひとさまの女房に手なんか出してんじゃねえぞっ!」
深夜だということも忘れ、携帯電話に向かってありったけの大声で怒鳴り散らした。
「殺すぞっ。てめえ、マジで殺すぞっ! 皿割ってやんぞっ!」
ぼくは自分でも驚くほどに激昂していた。まるで自分が自分でないかのような、それほどまでに自分をコントロールすることができなくなっていた。延々と罵声を浴びせつづけた。よりにもよって河童だとは……。相手が通話を切っていることに気づいたのは、怒鳴りすぎて喉が枯れたころだった。
「……せいぜい、そんなとこよね」
妻のつぶやきに、ぼくは顔を上げた。彼女が冷ややかな視線をぼくに向けていた。見つめている、というよりは、眺めていた。
なぜ河童なんだ。ぼくはその質問を口に出さずに飲み込んだ。妻の顔が、あえて河童なのよ、と返事をしそうな、そんな確信に満ちた表情だったからだ。
「どうせ河童どまりよね。あなたってそういう人、っていうかそういう天狗なのよ。河童にしか威張れない天狗。それも電話で距離が離れているからこそなんでしょ。……だらしない」
ぼくはほとんど反射的に立ち上がった。
「なによ。殴るの? 殴りなさいよ! 殴ってみなさいよっ!」
シーツをぎゅっと握り締めた妻の手が震えていた。目にはあきらかな怯えがあった。
ぼくは、握った拳を振り上げていた自分に気づいた。握りしめていた拳を開き、手をだらりと下に垂らした。それからあきらめきったヤギのように、大きなため息をひとつつき、うつむいた。
「それっ! それよっ!」
妻のどこか喜びを帯びた声に、ぼくは顔を上げた。
妻の目からは、止まっていた涙がふたたび溢れ出していた。けれどその涙は、さっきまで見せていたような、怒りや悲しみが混ざり合ったような涙ではなかった。
「……それよ。そういう風にしてて欲しいの。あたし、そういうあなたであって欲しいのよ」
彼女の言っている意味が、ぼくには分からなかった。そんなぼくの胸のうちを、まるで見透かしたかのように彼女はつづけた。
「……得意になってるんでしょ。自分の妻からこんなにもばかにされながら、それでも許してる自分、みたいなことに」
ぼくは首を横に振った。
「違わないわよ。絶対に違わない。顔を見れば分かるもの。あなたが自分で気づいてないだけ。すごく得意げな顔してる……」
ぼくは天狗だ。けれど、好きこのんで天狗に生まれたわけじゃない。
「……でも、それでいいのよ。ね。そういうあなたでいて欲しいの」
妻はぼくににじり寄ると、ぼくに抱きつき、胸に顔をうずめて泣いた。
「……もっと天狗でいてよ。お願い。もっともっと天狗になってよ。もっと傍若無人に振舞ってよ」
ぼくは天狗だ。けれど、好きこのんで天狗に生まれたわけじゃない。
「……ね。あなた……」
顔をあげた妻が、涙まみれの笑顔を浮かべた。「……あたし、天狗なあなたが好きなの」
ぼくは少しの間、妻の笑顔と見つめあった。
それから、思いっきり彼女の頬を平手で張った。ぱあんと抜けるような音がした。その音の小気味良さは、ちょっと天狗になってしまいそうなほどだった。
頬を手で押さえた彼女が、驚いた表情でぼくを見ていた。
「……うそつくなよ」
ぼくは小さな声でそう呟くと、妻をやさしく抱きしめた。
だが、妻は嫌がるように腕から逃れて、ぼくの鼻に握り拳のパンチを力任せに叩き込んだ。アッパー気味に入ったパンチは完璧に振り抜かれ、ぼくはぶざまなほど見事に仰向けにひっくり返った。
鼻血をたらたらと流しながら、仁王立ちになった妻を呆然と見つめた。拳を握り締めた妻は、涙まみれながらも得意げな表情でぼくを見下ろしていた。ちょっと天狗な彼女は、ひどく野蛮に、そして美しく見えた。
(了)