『『レモン』
TEXT by Toshio Suzuki
「ねえ。ちょっとの間でいいから、カラダ貸して欲しいんだけどな」
街を歩いていたぼくは、ふいにそう声をかけられた。振り向くと、いたずらっぽい笑みを浮かべた小柄な女性が、ぼくの顔を見上げていた。おそらくはぼくよりも五つ六つほど年上、二十代半ばあたりだろう。
カラダ貸して、という彼女の言葉に、ぼくはもちろんどきりとした。けれど、それ以上にぼくをわしづかみにしたのは、彼女の薄い唇だった。
閉じた唇が作る笑みの弧線は、真っ白な半紙に薄い墨で引かれたような、さりげない美しさだった。さりげないけれど、まるで悟りの果てまでたどりついた絵師が、わずかにも力むことなくするりと描いたような、完璧な柔らかさを持った笑みだった。
「えっ、あっ、えっ」
ぼくの口から漏れたのは、間抜けなほどのうろたえぶりだった。そりゃあそうだろう。見ず知らずの女の子から、突然「カラダ貸して」なんて言われれば。よっぽどカラダを貸し慣れている男でもなければたじろぐに違いない。
「お願い。ねっ」
彼女は肩を小さくすくめるように、冗談めかして両手を合わせた。上目遣いの瞳が、ちらりとぼくの背後に走った。
ぼくは彼女の視線の行き先を振り返る。八百屋の店先にチラシが貼られていた。途端に状況を把握することができた。
一個十円、お一人様五個限り――こう書かれたチラシの下に、レモンが山積みになっていたのだ。
「あ、ああ……そういうこと?」
ため息にも似たぼくの返事に、彼女の表情が一瞬クエスチョンマークを描いた。
ぼくは自分の下心を見透かされまいと、あわてて取り繕うように、彼女の背中を押しながら店内に足を向けた。ぼくの指先が、なめらかで華奢な背中の曲線を、思わずなぞりそうになった。
開店早々ながら、レジには長い列ができていた。列の最後尾には、若い奥さんが、年端もいかない子どもの手を引き、二人分十個のレモンをカゴに収め並んでいた。さしずめぼくの役どころは、あの幼い子供と一緒なのだった。
ぼくらは母娘の後ろに並んだ。
両手に五個のレモンを抱えたぼくは、同じようにレモンを手にした彼女の、白く細いうなじを眺めながら、列が縮むのを待った。
何か話しかけようと思うのだけれど、何を話していいのやら見当もつかない。こんなとき、カラダを貸し慣れた男なら、うまい言葉を見つけられるんだろうか。ぼくはいつまでも列が縮まないことを祈りながら、黙ったまま彼女のうなじを眺めつづける。
「あ、この曲知ってる。なんとかクラゲのなんとかって曲。わたしの知合いがライブハウスでたまたま見て、チンピラみたいなヤツらだって笑ってた」
店内BGMに反応した彼女が、曲について教えてくれた。けれど、ぼくの頭の中は他のことでいっぱいで、ヘンな曲だなという程度の感想しか浮かばなかった。
「ホントありがとね。助かっちゃった」
清算が済むと、彼女はぼくの手にレモンを一個押し付けた。あの軽やかな笑みを浮かべながら。
「お礼よ。じゃあね」
彼女はそう言うなり、ぼくに返事をする間さえ与えず駆け出した。
彼女が踵を返した拍子に、その場の空気までもが小さく躍ったようで、レモンの酸っぱい香りが、からかうようにぼくを撫でた。
彼女の姿が見えなくなると、手渡されたレモンに目を落とした。手のひらに湿り気を感じて、レモンを裏返してみる。一度落ちたか、どこかに打ち付けたかしたらしく、皮の硬度を失った一部分が、腐りかけて薄茶色く変色していた。
ぼくは親指をぐっと押し当ててみる。ぐじゅり。湿った音を立てて、親指は抵抗無く奥へ沈んでいく。溢れ出た果汁が、抜いた親指にぐっしょりとまとわりついてくる。果液に光る親指を、ぼくはなんの感慨もなく見つめる。
――ナイフを入れられて果汁を滴らせるレモン。
ふいにそんな連想が脳裏を過ぎり、途端にぼくの口の中を、唾でいっぱいにした。 (了)