『川に犬を流して』
TEXT by Toshio Suzuki
川に犬を流しに来た。
いつものように、言い出したのはカヨミさん。わたしは言うがままに連れてこられただけだった。これもいつものこと。カヨミさんには逆らえない。もしも逆らったりしたら、職場にいられなくなるのはもちろんのこと、それどころか、あの帰りたくない場所へ無理やり帰らされる羽目にもなりかねない。
生後五ヶ月の子犬が、おだやかな川の流れに揺られ、ダンボール箱の中で頭を上下させていた。きょとんとした顔が、次第に遠ざかっていく。
「あの犬、どうなっちゃうんだろうね」
カヨミさんは、どうにかなっちゃうのを期待しているかのようなわくわく顔で言った。
犬を流すたびに必ずされるその質問。わたしは一度も答えたことがなかった。
「そうだ。あの犬にBGMを聴かせてあげよう」
スマホをポケットから取り出したカヨミさんは、音楽を流し始めた。イントロもなく、ボーカリストがいきなり「おらおらホリデー、ぼくは死ぬまでぼくさ~」なんて歌いだしている。そんな小さな音量じゃ遠ざかっていく犬に聴こえるわけがない。けれどカヨミさんはちっとも気にしていないようだった。
「犬っていいよね」カヨミさんはしみじみと言った。「シアワセとかフシアワセとかって感じないんだよね。あんな状態になってても」遠ざかる犬を指差しながら、カヨミさんは笑ってみせた。唇の脇にできた青黒い腫れが邪魔するのか、なんとも歪な笑みだった。
会うたびに新しいアザをつけてくるカヨミさん。
また印をつけなくちゃ。わたしはそう思う。わたしの部屋には小さな人体模型がある。カヨミさんに新しいアザを見つけるたび、わたしは黒いマジックインキを使って、その位置を人体模型に印す。服で隠れた場所のアザだってわたしは知っていて、今や人体模型は全身が真っ黒に近い。
子犬がさらに遠のいた。走り出せば、今ならなんとか追いつける距離。
「カヨミサンハ、シアワセ?」
わたしが訊ねると、カヨミさんはとつぜん涙をこぼし始めた。
「もう一回訊いて」
懇願する彼女に、わたしは繰り返した。カヨミサンハシアワセ?
「シアワセ? って聞かれると涙が出ちゃうの」彼女は泣きながら答える。「自分がシアワセかどうかを気にかけてくれる人がいるって、それだけでも涙が出ちゃうほどシアワセ。お願い。もっともっと訊いて」カヨミさんはすがりつくような口調で言った。
わたしは繰り返す代わりに、彼女を突き飛ばした。
派手な水しぶきをあげて、カヨミさんは川に尻餅をついた。きょとんとした顔でわたしを見ている。そして、戸惑いもあらわな半笑いを浮かべた。
わたしは足元の石を拾い、彼女に向かって投げつけた。
「川に入っていかないと当たっちゃうわよ」
そう言おうと口を開きかけたけれど、声に出すのが億劫になって口をつぐんだ。黙ったまま、次々と石を投げた。
石のひとつがカヨミさんの頭に当たった。真っ赤な血が額を流れ落ちた。泣きながら川の深みへとあとずさるカヨミさん。
川は思ったよりも深いようだ。カヨミさんは、かろうじて頭だけを川面から出していた。わたしは執拗に石を投げつづける。彼女は涙まみれの情けない半笑い顔をこちらに向けながら、川を流れはじめた。
わたしはダンボール箱に入った彼女を想像しようと試みる。けれど浮かんできたのは、箱に入って流されるわたしの姿だった。
どうなっちゃうんだろうね? わたしの耳にカヨミさんの声が蘇った。もちろんわたしは、返事なんかしない。いまだかつて一度たりともしたことはなかったし、これからも死ぬまで死人のように口をつぐみつづけるのだろう。なんて気取ったことを考える。 (了)