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​『クマの結婚』

TEXT by Toshio Suzuki

クマ.jpg

 二十九歳。あたしは結婚を決意した。父と母に紹介するため、勤め先の同僚でもある結婚相手を連れて、あたしは実家へ帰った。十一月の終わりのことだった。

 彼を見るなり、父は、

「いや、これは、なんともその」

 と言い、

「え、あ、やだ、いや、そうじゃなくて」

 と母が言った。

 玄関をあがるなり、母はあたしを奥の台所に引っ張り込んだ。父も慌ててついてきた。玄関に立つ彼から見えない位置だ。

「クマならクマって事前に言っておいてもらわないと」

 そう言った母を、あたしは睨んだ。

 ちょっと尖ったオーラを発散させたあたしに、父が言い訳がましく言った。

「いや、そのな。クマがいかんって言ってるわけじゃないんだよ。ただ心の準備ってものがね、その……」

 あたしは幼少時、「シドロモドロ」とは、沼に生息するコケか何かの一種だと思っていた。父を見ながらそんなことを思い出した。

 玄関に戻り、彼を客間に案内する。床の間のある和室に入り、四人でちゃぶ台を囲んだ。

 父が、床の間に飾ってある木彫りのクマに気づき、すばやく隠した。母は、そうそうお料理を用意しなくちゃだわ、などと聞こえるように独り言を口にしつつ、和室を出て行った。父がすがるような目で母を見送った。

「根室和之と申します」クマが自己紹介をした。

「和之さん……和之さんとおっしゃるんですか」

 父が少し感心したように復唱した。

「……ゴローとか、プーさんとか、そういう名前だと思っていらっしゃいましたか?」

 彼は父に言った。やたら落ち着いた声の調子だった。

 いや、そんな、まさかははは、などと漏らしながら、父は汗もかいていない額をハンカチで拭った。

 母は、用意していた食事を客間に運び込む。出前で取っておいた寿司の大桶だった。

「……あの……鮭とかの方が良かったかしら」

 母が彼に訊ねた。

「私がクマだからですか?」

 彼が答えた。地中でのびるチョウセンアサガオの根のような、暗く冷たいゆっくりとしたトーンだった。

 いや、そんな、あの、などと母が呟くように答えた。父が母に、よしなさい、といった感じのジェスチャーをしてみせた。

 しばらくのあいだ、みんな黙ってもそもそと寿司を食べた。やがて沈黙にこらえきれなくなったように、父が口を開いた。

「……で、セツコは彼の、えっと和之君の、どこが気に入ったのかな?」

「彼はね、すごく責任感が強いの」

「ほう」

「去年の十二月にね、彼、職場でミスをしたんだけど、そのときの彼ったら、責任を感じちゃって、三月ごろまで引きこもっちゃったのよ」

 あたしが父にそう言うと、母は、「それって冬眠じゃ……」などと呟き、そんな母に、あわてた父がふたたび、よしなさいというジェスチャーをした。

 和之は気にするそぶりを見せず、「このコハダのしめかたと、こぶダシの上品さは絶品ですな」などとひとりごちながら、握りを二カンいっぺんに、口の中へぽいっと放り込んでいた。「ぽいっ」と音が聞こえそうなくらい、無造作なぽいっという感じだった。

「……和之くんのお父様はご健在でいらっしゃるのかな?」

 父が訊ねた。

 和之は一枚の写真を取り出した。

「私の父の写真です」

 猟銃を担いだハンターが、横たわったクマに片足を乗せ、Vサインをしている写真だった。

「この茶色いのが父です」和之がハンターに踏まれているクマを爪で指し示した。

 それからしばらくのあいだ、沈黙にずぶずぶと沈みながら、寿司をもそもそと食べた。

「それにしても、箸の使い方がお上手ですわね」母が場を取り繕うように和之に言った。

「……クマだからですか。私がクマだから、箸なんか使えないと思ってたんですね」

 父がみたび母にジェスチャーをした。母は、いや、そんな、あの、などと口にしながら、汗のかいていない額を、エプロンで拭った。

「箸の使い方に関してはずいぶんと練習をしましたから」

 和之が言った。

「ほう」

 話しの糸口が見つかったことに安心したのか、父がほっとしたような顔つきで感心して見せた。

「やはりですね、今の社会をクマが生きていくのは大変なのです。クマに生まれたというだけで、相当な障害を覚悟せねばならないのが現実なのです。ですから私は努力してきたのです。率直に言わせていただければ、私の努力はかなりのものだと自負しています。箸の使い方も練習しましたし、ワインについての知識はもちろんのこと、絵画や音楽、文学などの芸術関係についても造詣を深めるよう、恥ずかしくない努力をしてきたつもりです」彼の口調は誇らしげだった。

「音楽ですか。いや、わたしも音楽が大好きでね」父が喰い気味に言った。「ミントクラゲってバンドが大好きでしてね――」

「あれはダメです。全くよろしくありませんな。ああいうものは聴かないほうがよろしいと思いますが」

 和之の冷たい口調が、うれしそうな父の声を遮った。

 少しぴりっとした空気にあわてた私は、意識的に明るい声で言った。

「彼はね、すごく努力家なの。本当にすごいのよ」

 あたしの言葉に和之が深くうなずき、口を開いた。

「けれど、それでも社会の厳しさを感じることがあります。先日もレンブラント展を見にでかけたのですが、入場を拒否されました」

 父と母の顔は「クマだから?」と、聞きたがっているように見えた。

 その心を読んだかのように、和之がこくりとうなずいた。

 食事が終わり、母が桶や小皿をもち、台所へ片付けに行く。父も醤油差しなどを手にし、母を手伝う。

 あたしと和之は和室に残された。

「セツコさん、お父さんはぼくらの結婚に難色を示すんじゃないかな。何しろぼくはクマだし」

「大丈夫よ。実はね、姿見せてないけど、ウチってクマのお手伝いさんを雇ってるの。お父さん、そういう色々なことに理解を示している人なのよ。それにそのお手伝いさんだって祝福してくれるはずよ」

「そうならいいけどね」

 和之の口調はいくぶん不安を感じているように聞こえた。けれどクマの顔なので、本当に不安を感じているのかどうかは、あたしにもわからなかった。

 そこへお手伝いさんのクマが、コーヒーを盆に載せて運んできた。あたしの前にそっとカップを置き、和之の前にがちゃんと乱暴な音を立ててカップを置いた。三分の一くらいのコーヒーが受け皿にこぼれてしまった。そうしてから、しばらく和之を睨みつけた。おそらく睨んでいるのだと思うけれど、クマの目なのであたしにはわからなかった。そんな気がしただけだ。

「……いい気になるんじゃないわよ。あんた、勘違いしてるんじゃない? 身の程知らずってことを考えた方がいいわよ」

 お手伝いさんは吐き捨てるように言って、台所へ引っ込んだ。入れ違いに両親が戻ってきた。

「和之くんは、今、幸せかね?」

 父が訊ねた。

「幸せに憧れるほど不幸でもないし、かといって、おとずれてもいない不幸に怯えるほど幸せでもない、といったところでしょうか」

 和之が答えた。

 ふうむ、というように、父が腕組みをした。しばしの無言のあと、和之が言った。

「セツコさんを私にください」

 父は腕組みをしたまま、もういちど、ふうむとため息をついた。

「私がセツコさんを幸せにできないと思ってらっしゃるんですか?」

「ふうむ」

「私がクマに生まれてきたからですか? 私がクマだからセツコさんを幸せにできないと、そう思われているんですね?」」

 和之にそう言われたとたん、父は落ち着き払っていた様子から一変して、いや、そんなことは、いやそうじゃなく、などと、うろたえたように言った。

「確かに私はクマです。けれどこうして努力してきました。お願いです、セツコさんを私にください」

 和之が両手をついて土下座をした。木彫りのクマみたいな格好だった。

「いや、そのな、和之君。わかるんだ、君の言うことは。それに君が社会の障害に負けず生きていける強さを持っていることもわかるんだよ。ただね、娘がね、同じような強さを持っているかと考えるとね……」

「お父さん!」

「いや、セツコは黙ってなさい。……そう考えるとね、不安なんですよ。父親として。そして、和之君は、セツコが自分と同じような強さを持っていないかもしれないと、そう考えたことはないのかね?」

 父の言葉に和之がうなだれた。逃げられた鮭を川の底に探しているような姿だった。

「……すみません、お父さん。確かにおっしゃるように、私はセツコさんの立場に立って考えていなかったかもしれない。私の考え方は無責任だったかもしれない……」

 和之は泣いているように見えた。それは和之が責任を感じているときのいつもの姿だった。職場でミスをしたときと同じ彼の姿だった。

 いけない、と思ったけれど遅かった。和之は責任を感じて、客間の押入れに引きこもってしまった。こうなると春まで出てこないかもしれなかった。

 

 あれから二ヶ月たったけれど、和之はまだウチの押入れの中でうずくまっている。けれど、だれも起こそうとしないし、誰も触れようとしない。父も母も、そこには何もないかのように振舞っている。知らないうちになにかが解決するのを待っているみたいだった。

 そうして父も母も、あたし自身さえも、地球の自転と公転に任せるように、ただ春が来るのを待っていた。 

 

 

 

                      (了) 

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